川中島古戦場

川中島古戦場 さんぽ
川中島古戦場

こんにちは!

かっぴーです♪

今回は、長野市にある川中島古戦場史跡公園にやってきました。

小さい時に、歴史の勉強で訪れたことがありましたが、武田信玄と上杉謙信の戦いの像が印象に残っているだけでしたので、御朱印も頂戴できるかと思い行ってきました。

川中島古戦場
川中島古戦場史跡公園 看板

「川中島の戦い」は、室町時代1553年~1564年の12年間、5回に亘る伝説の合戦の総称です。

北信濃の支配権を巡って争いましたが、勝敗はついていません。てなわけで調べてみました。

なぜ、川中島の戦いが起きたのでしょう?

諸説あるようですが、川中島が、現在長野県を流れる犀川と千曲川が合流する地点で、越後と信州を結ぶ交通の要所だったことです。また、肥沃で豊かな土地であったため、鎌倉時代から幾度なく合戦が行われていました。

では、誰と誰が戦ったのでしょうか?

1553年に武田信玄が北信濃に出征したことから始まります。「甲斐の虎」といわれた、武田信玄は、「戦国最強」と云われた武田軍団を率いる強烈なリーダーシップを持っており、信玄の代で領地を7倍にも拡大させました。そして、信濃制覇を目指す信玄は、この地を治めていた「村上義清」という豪族を追い出しました。

上杉謙信
武田信玄

一方、越後の上杉謙信も「軍神」、「越後の龍」と呼ばれた戦の天才で、越後の国の統一を果たしただけでなく、内政面でも力を発揮させ、繁栄させた名君です。謙信は、非常に義理堅く、他国からの援軍要請にも幾度となく出征しました。このときも、村上義清や自分と親戚関係にある北信濃の豪族から助けを求められ戦いに介入します。

武田信玄
上杉謙信

その結果、戦国最強の二人が北信濃の地で戦うこととなったのです。

どんな戦いたっだのでしょう?

川中島の戦いは、「戦国史上もっとも謎に満ちた戦い」と云われています。勝敗がはっきりついていないこともあり、どちらも積極的に記録を残さなかったためか、資料があまり存在していないようです。通説では5回の合戦があったとされています。

第1次合戦 ~更科八幡の戦い・布施の戦い~

1553年4月、武田軍の侵攻により、葛尾城を捨て越後へ逃げてきた北信濃の村上義清は上杉謙信に助けを求め、「更科八幡の戦い」で勝利をおさめ、葛尾城を取り戻します。

武田軍が兵を引き終息したかのように見えたものの、7月に再び北信濃へ侵攻し、塩田城を攻め、村上義清は、またもや上杉謙信に支援を求め、9月に謙信自ら北信濃へ出陣し、「布施の戦い」で、上杉謙信は順調に勝ち進みますが、塩田城に籠る武田信玄にうまくかわされて攻撃できないまま、上杉謙信は陣を引き上げてしまいます。それをみた武田信玄も10月に甲斐へ戻ります。

この戦いでは、上杉謙信本人が出陣した記録は見当たらなかったことから、兵を貸したのではないかと云われており、本格的に戦うために「お手並み拝見」といったところではないかと云われています。

第2次合戦 ~犀川の戦い~

第1次合戦の2年後、1555年、武田信玄は、善光寺の栗田永寿に接近し、寝返りさせ信濃の勢力図が大きく変わり、長野盆地の南半分が武田軍の勢力下におかれ、上杉方へのけん制が強まりました。

4月には善光寺を取り戻すため、上杉軍が出陣し、犀川を挟んで両軍が対峙します。上杉軍が川を渡って攻撃を仕掛けるが決着がつかず、200日もの間にらみ合いが続き、双方の軍を消耗させました。特に甲斐から遠征してきている武田軍は兵糧を調達するのに苦労したと云われています。

10月に、武田信玄側から駿河の今川義元の仲介で和睦が提案されました。和睦の条件に、上杉謙信が示した条件は、旭山城の破城と北信濃の国衆に領土を返却することでした。よって、北信濃における勢力は確保されることとなり、この合戦だけみれば、上杉謙信軍の勝利といえます。

第3次合戦 ~上野原の戦い~

第1次合戦で上杉謙信を侮れない敵とみなした武田信玄は、正攻法では勝てないと思い、北信濃の国衆を味方に引き込み、あの手この手と策を講じますが、通用せず確実に勝つ方法を考えていました。

一方、上杉謙信は、相次ぐ家臣の争いや信濃の調停や戦いで心身ともに疲れ果て、1556年3月に突然出家を宣言し、一人高野山へ向かいます。しかし家臣らの説得で越後に戻り、武田軍に内通した家臣を打ち破り、更なる上杉軍の結束を強め、求心力を高めました。

その間も和睦などなかったかのように、北信濃の国衆を懐柔し、侵攻の準備を進めていました。1557年2月、豪雪の越後で上杉軍が身動きできない時期を狙って、武田軍は善光寺西北の葛山白を攻め落城させます。上杉謙信は、狡猾な武田信玄のやり方に激怒しますが、悔しい思いをしながらも雪解けを待ち4月に出陣します。

上杉軍は、武田軍に奪われた城を次々と攻め落とし、信濃中部まで侵攻していきます。8月下旬に上野原でも合戦を行いますが、小競り合い程度で全面衝突とはならず、決着がつかないまま、両者ともに撤退をしました。

第4次合戦 ~八幡原の戦い~

武田信玄は、北信濃に新たに海津城を築城し、そこを拠点に勢力を伸ばしていました。上杉謙信は、1万3000の兵を率いて、海津城の向かいにある妻女山に布陣します。対する武田軍は、2万の大軍を率いて、しばらくにらみ合いをしています。

1561年9月、武田軍の天才軍師、山本勘助の提案で、兵を二手に分け、本隊8千は八幡原に布陣し、別働隊1万2千を上杉軍がいる妻女山へ向かわせました。山にいる上杉軍をつついて平野に誘い込み、待ち伏せをして勝つという作戦です。いわゆる「啄木鳥戦法」です。

ところが、武田軍の海津城からの炊煙の量が増えていることから、上杉謙信は、武田軍の作戦を察知します。上杉謙信は、夜の間に、一切物音を立てないように兵を妻女山から下山させ、八幡原に布陣させました。翌朝、深い霧が晴れて、目の前に上杉軍が現れたとき、武田信玄は愕然とします。そこへ上杉軍の攻撃が始まりました。武田軍は劣勢となり、信玄の弟で副将の武田信繁、軍師の山本勘助が討ち死にしました。

川中島古戦場
川中島大合戦図

武田軍の別働隊は、妻女山がもぬけの殻なのに気付くと、慌てて下山し、八幡原に向かいました。それまで優勢だった上杉軍は、逆に形勢不利になり、両側から攻められる形となり、乱戦となった結果、総大将の上杉謙信自らが、武田信玄の本陣へ突入します。ここで床几に座る武田信玄に、上杉謙信が切りかかり、軍配でこれを受け止めます。これが2人の一騎打ちの有名なシーンです。

川中島合戦
川中島合戦

第5次合戦 ~塩崎の対陣~

その後も上杉謙信は、関東に攻め入るたびに武田信玄に北信濃に侵攻され、背後を脅かされ、1564年、武田信玄への怒りに、上杉謙信は、彌彦神社に「武田晴信悪行之事」を奉納し、必ず退治すると誓いました。

「川中島最後の戦い」と云われた第5次合戦は「塩崎の対陣」と呼ばれ、対陣で終わりました。

終わりに

だらだらと、川中島の合戦について調べてみましたが、上杉謙信と武田信玄が、ともに協力したら、織田信長や徳川家康の天下は、なかったかもしれませんね。歴史が変わっていたかも…

川中島合戦
八幡社

折角なので、八幡社にお参りして、御朱印も頂戴してきました。

御朱印
甲斐の虎 越後の龍 〔御朱印〕

御朱印もいくつかありましたが、川中島の合戦にちなんで、「甲斐の虎」対「越後の龍」バージョンと、家紋バージョンを頂戴しました。

御朱印
家紋バージョン〔御朱印〕

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